昭和46年03月11日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらなければよし。乞食じゃというても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見て居る。しっかり信心の帯をせよ。」
ここんところで一番分からせて貰わねばならぬところは神はよく見て居る。しっかり信心の帯を締めてとこういう神様が見透しなんだ、聞き透しなんだとそれを私は信じること。神様が見透しである。聞き透しである。ところが私共信心させて頂くものが初めから神様が見透しであるとか、聞き透しであるとかと、いわゆる生きた神様が生きた働きをして在るんだと言う事が、判る筈もなし。
又それが信じれというても、信じられる筈もありません。一番大事なところですけども、そう簡単には、わしがよう見とるから、何と言われてもどう言う事が起っても心配要らんと、と例えば、神様が言うて下さったにしてもそれを初めから信用する人はありません。それは出来ないのが本当。そこでです、その神様がね、本当に生きてござる。しかも人間氏子のために、あらゆる手段、どんな手段を講じても人間の幸せになることの為に本気で働いて下さる。
いわゆる一分一厘の間違いなさ、そういう一分一厘間違いのない働きをもって、私共の上に臨んで下さる働きかけて下さると言う事を信じると言う事は、矢張り体験しなければ出来ん。成る程神様は見透しやなあと、聞き透しやなあと、こちらは頼みもしとらん、願いもしとらんけれども、神様はちゃんと知ってござる。だからこそ、神様はちゃんと先回りをする様にしておかげを下さってある。お願いをしとらんことまで、こんなおかげを下さってと言う事になって來る。
なるほど神様が見透しだな、聞き透しだなあとそれがだんだん信心が出来る様になり、おかげを頂いて來る様になると神様の方も矢張り一生懸命になって下さる。ですからもう、その氏子の願いが在ろうが無かろうがちゃんと先回りしておかげを下さる。皆さん体験される事があろう。又同時に此処で信心しておられると、それを目の当たりに見ることが出来るですね。
神様の御都合には、いわば神様の御働きには恐れ入る。神がよく観ておると仰せられます。その神様がよく観て居って下さることを先ず信じる稽古が必要です。だから人が盗人じゃと言うたり、乞食じゃと言うたりしたら、俺が何時泥棒したか、俺が何時乞食したかと向かうて行かねばならんんのでございます。もう向こうて行ったり腹を立てたりしたらもうお仕舞なんですよ、信心は。
打ち向かう者には負けてと仰る。時節に任せよと、いやそれだけではない、それで腹でも立てたら今迄積み上げた信心が、ガターっと落ちて仕舞うんですよ。ですから本気で腹を立てませんといった修行が必要でありますことが、分かりますね。成程言い訳は要らん。言い訳は出来ても、例えば悪口を言われたからというてそれに打ち向かうて行くことはいらん。打ち向かう者には負けて行け。時節を待って行けば矢張りあんたがいいよったのが本当じゃったと言う様になって來るのである。
だけではない、そういう信心の稽古、そういう辛抱こそが人徳を承ける修行になってくる。そこで例えば、今日の五十八節で今日初めてこの様に聞いて頂くんですけれども、此処で一番大事なところは、神がよく観て居る、しっかり信心の帯をせよと仰るここんところが一番大事なとこ。そこで、ならしっかり信心の帯をせよとはどう言う事かと、毎日一生懸命お参りしよる、偉い修行なんかさせて頂いて神様に一生懸命お願いしよる。しっかり信心の帯をせろと言う事はね、そう言う事じゃないです。
十年も毎日日参させて貰いよるというのは、信心の帯がしっかり出来ておると、言う事にはならんのです。日参が十年続いておる、二十年続いておるという様なことで、信心の帯をしっかりするとどういう事になるかというと、結論からいうと、泥棒といわれても、乞食じゃと言われても腹が立たんです。腹が立たんどころか、そういう悪口をいうておる人達のことが、何か知ら祈らなきゃおられない可愛そうになって來るです。
良いですか、信心の稽古を、信心の稽古を本気でさせて頂こうという気になった時信心の帯が出来たんです。ここんとこ初めて皆さんに話しとる訳ですから、よくここんところ、ひとつ腹入れしといて下さい。しっかり信心の帯をせよと言う事は、私どんしっかり参りよりゃ信心のそりゃ。成程しっかり信心は出来よる、けれども、信心の帯はしとらん。バイバイさんのごとあること、帯をしとらんから見苦しか。信心の帯をしておると言う事は、本気で信心の稽古をさせて頂くと言う事。
いや信心の稽古をさせて頂きたいという願いをいつも持っておると言う事。今日もどうぞ本気で信心の稽古をさせて下さいと、それなんです。それが信心の帯をすることになる。私共の心の中に今日もどうぞ神様、しっかり信心の稽古をさせて下さいという祈りを持たせて頂いたら、どう言う事になるでしょうかね。神様は今日はどういう事で信心の稽古をさせて下さるだろうか、そういう稽古の楽しみが湧いて参りましょうね。神様今日はどの術で鍛えて下さるだろうか。それがどうでしょう。
そら毎日参りよるが、断食の修行したり、水をかぶったりしよります。如何にも信心の帯をしっかりしている様だけども、それはしっかり信心しよるだけで、信心の帯はしとるとじゃない。だからそう言う事では、いつも乱れとりますから、馬鹿といわれると何が俺が馬鹿といわにゃならん。泥棒といわれると俺がいつ盗ったかと警察問題でもしかねない様に腹が立つ。所がしっかり信心の帯をする、信心の帯をすると言う事は、しっかり今日も信心の稽古をさせて下さい。
今日もどうぞおかげを頂かせて下さいというのと違う。信心の稽古。例えばお花ならお花の稽古に参りますのに、稽古させて下さいと、言ったってお花の材料を持って行かないでは稽古は出来ません。お花の材料が無かったら、私共が稽古をさせて下さいと願う、ここには信心の稽古に來るところ、しっかり信心の稽古をして帰れと、いろいろに信心の稽古をさせて下さると言う事。御理解の中に、信心の稽古を説いてありますが、しっかり信心の帯をせよと言う事は、しっかり信心の稽古をさせて頂くと言う事。
しっかり信心の稽古をさせて下さいと言う事。そこに信心の帯がしっかり出来とる。そこで今日はどの手で教えて下さるであろうか。今日はどういう材料をもって、教えて下さろうかと言う事になるのです。そこに材料が馬鹿と言われる材料やら、泥棒と言われる材料やら、乞食と言われる材料がある。それがひどければひどい程、それがへとへとする様な問題であればある程、そりゃきついけれども、こころの底にはニコッと笑いたい様なものが出来て來る。
どうぞここ稽古させて下さいと言いよるが、この稽古の曙にはどげなおかげが頂けるじゃろうか。どういう力が頂けるじゃろうかという楽しみが生まれて來る。これは絶対稽古には、これは信心だけじゃない、勉強だけでも、学校でもそうです。本気で学問の稽古に学校に通うと、本気で思うたら毎日毎日学校に行くのが楽しうてたまらん。予習復習せにゃおられん。いつも教科書、本は手から放そうごとない。そげんなるです。ただ行かなきゃならんから行きよるちゃから、学校が嫌になるのです。
本気で勉強しようというその気になったらね。勉強しようという、学問しようという帯をしっかり締めた人は、もう学校行きが楽しうでたまらん。稽古はすべてそうです。何の稽古でも本気で稽古しようという腹が決まったらね、少々叩かれても楽しうてたまらん。習わなならんから習う、親が習えというけん習いに來よるから、もう止めたい様にある。稽古も何も同じですよ。だからここにはね、ここには信心の稽古に來るところと、はっきり教えておられるのです。
はっきり信心の稽古をさせて下さいという願いが先なんです。それを今日はここのところが一番、神がよう観ておる、しっかり信心の帯をせよと。けれども、神が観ておる聞いておると云われても、初めの間それが分かる筈が無い。だからそれが分からせて頂くということには、しっかり信心の帯をしなけりゃいかん。本気で信心の稽古をさせて頂こうと云う気にならなければいけない。
しかもそれは、祈り続けられるものでなければいけない。どうぞ今日も信心の稽古をさせて下さいと、今日の御教えを基にして、今日の御理解を基にして今日一日信心の稽古を本気でさせて頂こうという気になる。ですから、神様どうゆう材料与えて下さるか分からん。それが、言うならば楽しみにもなってくる。それがお花であるなら、それが見事に活け上げられた、時の喜びというものは、又と味わえない喜びが其処にあると思う様に信心もそうである。
今日もきつかったけども、本当に本気で信心の稽古を、あの事をもってこの事をもって、色々信心の稽古をさせて貰うて、あの事が分かった、この事が分かったと言う事になるところに信心の楽しみがある。そこにはおかげの喜びも、勿論伴うて來ることだろう。そういう繰り返しさせて頂きよるとき、成程神様ちゃ間違いないなと言う事が分かる。私は天地の親神様は、電気体の様なお方だなと私は自分で感じ取っております。ところが最近、といいましても。
昨日からこれは人間の心の中にも一つの電気体の様なものが有ると言う事を感じさせて頂いとります。というのはね、昨日月次祭を奉仕させて頂くのに、八時に御霊様に必ずきちっと八時から始まる訳ですね、この月次祭は。ところが私がここに座る時にはもう二分過ぎとったです。八時二分回っているのです。それで私は御霊前に座らせて頂いて、二分遅くなしたことを神様に一番初めに御詫びさせて頂いた。皆さん例えばこうと決めたらね、十分、十五分遅れたっちゃどうあろうかい、と言う事じゃ出来んです。
信心の節度です。こうと決めたらそれをね、本気で行じ抜かにゃ出来ん。そういう精進が必要です信心には。私は今日二分間遅れたことを、座って拍手打ってすぐ、今日は二分間遅れたことを御詫びさせて頂いておりましたらね、昆虫のあれは何というのですかね、髭をこう持っとるでしょうが、いろんな昆虫は、あれをカタツムリなんかにも有るでしょうが、触覚と云うですねあれを。触れて覚えると書いてあるですね。触覚とですから一寸物音がしたっちゃつーと引っ込むでしょうが。そげん敏感ですよ。
昆虫がこう歩いて行きよると一寸何かに長い髭が一寸何かに当たったらちょっと方向変えるでしょうが。前に傷害があることが分かるからです。私はそれを頂いてですね、いよいよ思うた。これは人間にも、天地の親神様も電気体の様なお方ならです、私共の心の中にも矢張り電気体のような働きがあると言う事。だから信心は生き生きとした信心でないといけないと言った様にいわれるゆえんはそれです。どんなに助けて下さい、お願いしますばっかりでは、心が枯れておったらね、枯れただけで電気は駄目ですよ。
ピリッとも来んです。だから一心とか真とか、いわゆる一生懸命が求められる訳です。心が生き生きとして弾んでくる。そういう生き生きした心なんです。そうでしょうが。例えば、漏電しよるところへですね、生きたものがそこに触れたらね、ビリビリと來る訳です。死んだものが当たってもビリッとも来んです。だから信心はどうでも生き生きした信心をですね、それこそ、そのために修行でもする訳です。修行でもさせて貰いよると心が生き生きと弾んで來る。
人間は万物の霊長だからと教祖が仰った。人間は万物の霊長といわれる程しのものなのですから、私はこの霊能者、霊徳と申し上げる、と云う様な優れた霊徳を備えておる人はね、いわゆるこの触覚がね、素晴らしい訳なんです。いわゆるインスプレイションとでも申しましょうか。霊感なんです。だからこの霊感なんかと云うものをね、何か低級視する人もありますけども、私は素晴らしい人間の霊長としての値打がそこに発揮されておるんだと云うのですから、大変な素晴らしいことなんです。
それは汚れに汚れたり、けがれにけがれておるから、それがいわばピリッとも来んごとなっとる訳ですよね。だから私共本心の玉を磨くとか、改まるとかなってくると、それは誰しもが感と云うことを非常に強くなる。昨日私が二分間遅れたことが一寸触覚が鈍っているぞと神様は仰った。と思って考えて見ると、昨日お客様が有ったもんだから、夕御飯をゆっくり食べよった。いつものつもりでお風呂に入って、いつものつもりで洗いよった。そしたら家内がもう十五分しか有りませんよと。
ハッとして、それから急いで洗って上がらせて頂いて一生懸命やったけれども、いつの間にか二分間おくれておった。あれが例えば感の方が鋭い時には、お風呂に入ったっちゃ、洗おうごとなかごとなって來るです。何か早う上がろうごとなってくるです。ああ矢張りほんに上がったら丁度こげな時間に間に合わじゃったから、またこういう人がたずねて來る状態になって來るからじゃったろう様なね、私は日々それを体験致します。そげん間違いないです。
今日はどうでもこうでも、親先生に合わせて頂かにゃと思いで、本気で合わなきゃならんなら、私どこに居ってもここに座っとる。(御結界に)これはもう絶対です。そういういわば、働きがですね、なら二分間だけ鈍っとったなと神様は言って下さった訳なんですよね。信心の帯をしっかりさせて頂くとね、それはどう言う事かというとね、今日もどうぞ、信心の稽古をさせて下さいという、そのことが心の中に願い続けられて居る。今日も信心の稽古をさせて下さいと言う様な信心をさせて頂いておると。
その霊感が非常に鋭くなって参ります。だからどうでも是は必要な事なんです。頂かなければいけない事なんです。断食なんかさせて頂いて、もう明けても暮れても神様の事思いますとね。ですから普通は頂かない人でも、御心眼を頂いたり色々なそんな霊的な働きを受ける事が出来るのです。それに打ち込んでいるから稽古に。だから例えば修行に打ち込ませて頂いても、これを貰わんならんけんするという、修行じゃなくて今日も本気で信心の稽古をさせて頂きます為の、修行でなくてはいかん訳です。
そういう稽古から期せずして、私共の心の中にあるところの電気体といったものがはっきりして來る。神様と電気とのふれ合いがびりびりした様なものになって來る。同時に人間は万物の霊長と云われる。誰しも頂いている霊徳と云うものがです、いつでも発揮出来る様に段々なって來る。すと、今日は私は五十八節が今日程はっきり分かったことはない様な気がするのです。
例えばどんなに泥棒と言われても、乞食じゃと言われてもですね、腹を立てては馬鹿らしいことが分かりますね。はあ今日は神様は私に泥棒とか何とか私にいうてから稽古させなさる。大変ひどい事に違いはない。けれどもこれが稽古と頂いたらどげな素晴らしいおかげ頂かれるじゃろうかと思うたら、楽しうなってくる。ひどいことであれば、ひどい事である程、それには本気で信心の帯をせよと仰るのは、本気で本気で信心の稽古をさせて頂くという心構えというか、姿勢が出来とらなければならんと言う事。
だからどういう問題が起こって来ても、どっこいさこれでと言うてそのどっこいと受けられる訳です。そしてこれで修行させて頂く、そして投げられて、それは失敗に終るかも知れませんよ。向こうの方が力が強いかも知れませんよ、問題の方が。だから投げられても構わんです。投げられながら強うなって行く。投げられながら手を覚えて行くわけですから、そういう信心の帯をさせて頂くと言う事が、信心の稽古をさせて頂くことであると云うことが分かったら、それは勝てば尚有難いけど。
負けても又楽しいと言う事になってくる。もう信心の稽古以外にはない。ですからお互いが本気で信心の稽古に通うて來るという、お願いしなければならん事が沢山あります。ですから、それはお取次頂いてお願いします、それはもうお願いしたのですから、先生にお預けするお任せして帰るんです。そしてここ一歩出るところからもう稽古が始まる、と言う様な気持ちが大事だと、それが信心の帯をすると言う事です。この五十八節の一番分からせて頂かにゃならん有難い所はです、神様がよく観ておると言う事。
しっかり信心の帯をせよというところが一番大事であると言う事を申しました。神がよく観ておると仰せられる。本当に神様が観ておって下さるなあと言う事。そこんところが頂けて來るんですよ。成程神様が観てござるな、聞いてござるなと言う事。もう二十年も前だったでしょうか、私があることで或信心上の事で呼び出されましてね、もうそれこそ、私の口からはそれがどうにもいえないところまで追い込まれておったです。そんとき、間一髪と云う時にですね。秋永先生がやって見えましたからね。
それを聞いてから秋永先生がそれこそ、立て板に水を流す様に説明をして呉ました。だから私からはいえないこと、どうにも出来ないこと。けども、秋永先生の口からならそれが言えれること。神様が観ておって下さる証拠、聞いておって下さる証拠でしょうが。だからそういう例であるならば、もうあの秋永先生が私に是非合わんならん時には、福岡の町の真中であろうが、電車の中であろうが合いよりましたです。あの当時は秋永先生の電気と私の電気がいつも接触し合うておったかと思います。
これも不思議でした。あの広い福岡の真中で合わんならん時はぴたっと合うとですけんね。とてもこの電車の中に乗っている筈なかとにです、ちゃんと乗っとるとじゃからね。合わんならん時にはそういう体験を私共は積んで積んで積み上げて来ておるからです。私共はどんな事があっても、普通なら血の涙の出る様なことに当たっておってもです、心の底に有難いなあと思えて来た訳です。神様が観ておって下さるのだから、信心とは神様が御覧になっとる世界に生き抜くと言う事が言えて来た訳です。
腹かくことも要らん、あわてることも要らん。神がよく観ておる。神様が観ておって下さる、聞いておって下さることを確信できるところに安心の生活が頂ける訳であります。お互いのしっかり信心の帯をすると言う事は、一生懸命参って來るだけじゃないと言う事。一生懸命修行するだけの事じゃないと言う事。しっかりその事を通して信心の稽古をさせて頂くという心の状態が、信心の帯をしっかり締めておることですから、どう言う事が起こって来ても帯をしとるから乱れんで済む訳ですね。
どうぞ。